ボランティア活動についてもう一度見直す時間

ボランティアという言葉の再定義を

日常生活の中で、人手が足りないときに発生するボランティア。

しかし、そもそもボランティアは、人員補充のために使われるものではないと思います。

最近よく思うのが、 「ボランティア=何か行動を起こしたいグループが、人手不足で困ったときに使いがちな、都合のいい人員補充ツール」となっているのではないかと思うのです。

つまり、人手不足で困っている団体がボランティアという言葉を使って、通常よりも安く労働力を増そうとしているのではないかと思います。

自分たちが困っている状況であることを世の中に発信し、その結果、それを見た人たちが自らの意思で、その活動をサポートしたいと集まってくるのなら理解できるのですが、困っている側が自ら一本釣りのような形で、知人などにボランティアをお願いしに行くことは、どこかおかしな状況ではないでしょうか。

そこで今日はボランティアという言葉がもつ本来の意味をお話して、ボランティア活動をお願いする側の人たちと、その活動に参加している人に、もう一度ボランティアについて考える時間を作っていただきたいと思います。

ボランティアは志願兵である

ボランティアという言葉をネットで調べてみると、語源は志願兵であり、自発的なことであることのさまと書いてありました。

また、ボランティア活動の原則として挙げられる要素は、自発性・無償性・利他性・先駆性であり、組織から強い拘束力を受けず、組織が強制して活動をお願いすることは難しいため、職場や家庭などで緊急の用件が発生した際はそちらを優先するとありました。

 

わたしはこれまでの経験上、ボランティアという活動で自分のプライベートな時間をイヤイヤ割いた経験があります。

となると、その時点でもはやボランティア活動ではなく、それは苦痛を伴った労働になっていると思います。

志願兵という言葉がボランティアの語源であるならば、わたしのように苦痛を伴いながら活動する人は徴集兵であると言えます。

 

 

では、どうしてボランティア活動が、本来の姿と違い、人に苦痛を与える存在になってしまうのでしょうか。

 

その答えは、ボランティア活動をイヤイヤながら引き受ける人が存在しているからだと思います。

 

どういうことかと言いますと、イヤイヤながらボランティア活動を引き受けた人がいた場合、キッパリと断った人を妬む傾向にあるからです。

そして、断った人があたかも薄情者や非協力的な人間だというレッテルを貼り付ける人が多いのではないでしょうか。

 

私は自分の時間を割いて、みんなのために活動しているのに、どうしてあの人は協力しないんだ」と。

 

また、わたしのように断り切れずに参加をした場合、ボランティアを依頼してきた人のことを「自分を都合のいいように使う悪い人」を位置づけすることもあります。

 

そうなってしまうと、その後の人間関係にも悪影響を及ぼし、ボランティアという尊い活動が、あたかも悪魔のような存在にすりかわってしまいます。

 

 

ですが、これまでお話したように、ボランティアとは本来、自発的にするものであり、自分のプライベートを割いてまでする必要はない活動なのです。

 

そして、本当はやりたくないのにボランティア活動に参加して、参加しない人・依頼をしてきた人を悪者扱いする人こそが、本来のボランティア活動のあるべき姿を壊している存在であると思います。

 

日本人は困っている人を見捨てない

日本人は昔から困っている人がいたら迷わず助けるように教えられてきました。

その教え自体は素晴らしいことですし、わたし自身そうあるべきだと思います。

 

ただ、このように日本人が本来持っている優しい心と、ボランティアという言葉の相性が悪いと考えます。

 

つまり、ボランティアは参加の意思決定が自由な活動でありますが、日本ではそれ以上に無償の奉仕活動という意味合いで使われています。

 

このことがボランティアに参加をしない人を薄情者と位置付けてしまう大きな要因ではないでしょうか。

 

他人が困っているのを助ける原動力は、その人が持つ奉仕の心です。

そして、その心を美学とする日本人は、困っている人を助けない人たちを悪い人だと位置づけます。

 

その対象は自分自身も含まれていて、目の前に困っていること・人がいるのに、それを見捨てる自分は非人道的な人間になってしまうと思い、断ることができない(薄情者だと思われたくない)状況が発生してしまいます。

 

その結果、ボランティア=奉仕作業という解釈をしている人たちが、言葉の意味を知らないがために、本当は悪いことをしていない人(自分自身)を悪者に位置付けしている可能性があります。

 

またボランティア活動への参加が、自由意志ではなく半強制的な側面が強い現代では、参加しない人たちの意志表示の機会を奪い、結果的にイヤイヤながら参加してしまう人を量産してしまうという悪循環が発生していると思います。

 

自分たちの目標達成のために起こした活動は、自分たちでやり抜く計画性を持つこと

最後にボランティアをお願いする側の人たちにお話させていただきます。

困っていること・人を助ける上で必要なボランティアですが、本来なら困らない状況を作れたにも関わらず、ボランティアの存在ありきで活動していることはないでしょうか。

 

どういうことかと言いますと、例えばあなたが所属する団体が、ある目標を達成しようと活動したとします。

ここでのポイントは、その目標はあくまで自分たちが設定したものであって、この時点で困っていること・人は、自然状態で存在していないということです。

また第三者にとって、あなたたちが立てた目標は全く無関係なものであり、第三者の人にとっては達成すべき目標とはなり得ません。

 

しかし、活動を進めていく段階で、当初の計画が甘かったために人手を補充しなければいけない状況が発生したとします。

 

この時点で初めて、あなたの所属する団体は困っていること・人という状態になり、ボランティアを必要とする存在になります。

ですが、先ほど申し上げたとおり、第三者にとってあなたの所属する団体の目標は、達成すべき目標とはなり得ませんので、その目標に賛同する人たちに向けてボランティア活動の依頼をするのが自然の流れだと思います。

 

ただし、わたしはそもそも人手が足りないとわかった時点で、あなたが所属する団体が立てた当初の目標を実現可能なレベルに再設定するなり、最悪は中止という選択をとって、また新たに計画を練り直すという作業をしなければならないと思います。

 

その理由は、そういった類のボランティア活動の依頼は、賛同する人を広く集める活動はせず身の回りにいる人に参加を呼びかけ自由意志とは違い困った人を見捨てることのできない日本人の優しさを利用した、半強制的なボランティア活動を生み出す結果になりやすいからです。

 

 

それでもなお計画を実行した場合、目標を達成したあなたや所属する団体は達成感を味わうでしょう。

 

しかし、ボランティアで参加をしてくれた人は、あなたの所属する団体が立てた目標に自ら賛同して、この計画をやろうと思った人ではありません。

あなたたちの困っている姿をみて、助けようと奉仕活動をした人たちなのです。

 

奉仕活動とボランティア活動は全く性質の違うものです。

他人に奉仕活動をさせる前提で、自分たちの目標を達成しようとする活動は、ほんとうにやる必要があるのでしょうか。

 

ボランティアという言葉の意味をはきちがえて、ただの便利な人として扱っていないかどうか、いま一度慎重に考えていただきたいと思います。

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宮崎県の木城町という小さな町にある観光協会のホームページです。 観光事業に関わらずいろんなことを記事にして情報を発信して、結果的に木城町の名前が日本中で知り渡ればいいなと思いながら運営をしてます。